第三次世界大戦の誘因?資本主義が行き詰まると戦争になる?

資本主義は景気循環と呼ばれるサイクルを持つという。必ず好景気のあとには不景気がめぐってくる、そしてそのうちまた景気が回復する、というサイクルがあるそうだ

そのサイクルには「不景気」が含まれているが、これが第三次世界の誘因となるかもしれないのだ。

この「不景気」とは、物が溢れすぎ、売れなくなり、企業が倒産して、人が失業して貧しくなり、ますます物が売れなくなるというものだったとおもう。

その不景気の不満を戦争というどさくさに紛れさせようとするというのだ。

戦争中は経済のことなど二の次になるからだ。そのうち、景気循環によってまた好況になる。

現在はどうだろうか?

日本の景気はどうか?アメリカは?中国は?ロシアは?ヨーロッパは?

もし不況ならば、紛争や戦争を引き起こし、経済の行き詰まりを誤魔化そうとする動きがあるかもしれない。

これは結構疑わしい。さらに言えば日本の国の借金は1100兆円。アメリカの国の借金は多すぎて幾らか分からないとも言われる。世界の債務は2.8京円と言われる(*【図解・国際】リーマン破綻10年・世界の債務残高(2018年9月)https://www.jiji.com/jc/graphics?p=ve_int_america20180914j-05-w420

モノやカネのために人が殺し合うのは馬鹿馬鹿しい。

もともとモノやカネは人の暮らしを豊かにするために、人を幸せにするためにあるべきものなのだ。

それなのにモノやカネのために人が苦しみ、不幸になるのは本当に馬鹿げている。

今の私には思い付かないが、人が不幸にならない、幸せである経済であってほしい。

政治勢力は、不況になっても、なんとか平和のうちに踏み留まって、経済問題は経済問題として解決してほしい。

イエスが「殺せ」と教えたか?

イエスが「殺せ」と教えたでしょうか?答えはNo。イエスは「殺すな」「敵を愛せ」と教えました。イスラム教もイエスを預言者として認めていることが、世界平和、テロ抑制の重要なポイントだとおもいます。

目を覚まそう(私を含めて)

2019年、どんな年になるのでしょうか?私も含めて、皆、目を覚ましてともに幸せに生きましょう。

歴史を振り返ると、そして今も戦争、紛争、殺し合いがあります。

だが、ふと目を覚ますとおかしなことに気づくはずです。殺し合うことは必然ではないのです。国家間の殺し合いなど、多くの人が目を覚ませば明日にでも停止できるはずです。

確かに対立、いがみ合い、少なくともじゃれ合いは、ほぼ必ずあるでしょう。だが、何も殺し合いまでエスカレートさせることはないのです。人は敵をも愛し、妥協点を見つけることができるのです。

集団と集団、国家と国家の殺し合いは、一方、または双方を悪であると非難するのではなく、国際社会全体で、殺し合いそれ自体、平和でない状況を非難すべきなのだと思います。広く反戦運動を展開し、国連がそのリーダーになるべきでしょう。

原因を問えば「相手が悪だ」「自分達は平和を求めている」と、紛争、戦争当事者達は言うかもしれません。

それならば、まず、国連が中心となって停戦を実現するのです。そして、「すべての人を尊重する、殺さない、敵を愛する、最終的には幸せにする」という要件を満たした上で、当事者たちが妥協できる合意案を何とか見つけるべきなのだと考えます。

その倫理的根拠は真の平和が「ともに生きることを喜びとする社会」であり、究極の平和が「永遠の幸せ」であることです。

「殺し合わなければ、貧困や苦しみがなければ、人口爆発が起きて人類が滅びてしまう」「殺し合いがなければ、人類は弱体化し、外敵に滅ぼされてしまう」という批判があるでしょう

しかし、それは等式的に正しいのでしょうか?

すなわち、人口爆発を防ぐために、弱体化を防ぐために、人は殺し合い、苦しまなければならないのでしょうか? それは間違っているでしょう。

「人口爆発、弱体化を防ぐ別の方法を何とか見つけて、皆、幸せに存在する」というのが正しい答えだと考えます。

「殺し合いのマインドコントロールから目覚めて、皆で幸せに生きる」

その始まりとなる2019年でありますように。2019年1月1日

 

移民問題について

要約
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移民問題とは、突き詰めると「不老不死の世界」か、「誕生、病気、老、死の循環世界」か「その他」かという問題だろう。
放置してよい問題ではない。現状は良くないし、このままでは人口爆発で滅びることにつながるかもしれないからだ。 誰か解決してほしい。
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 ヨーロッパではアフリカなどからの移民の流入が問題となっているという。大統領選挙で当選したアメリカ次期大統領のトランプ氏は移民の流入を防ぐためメキシコとの国境に防壁を築くといった。日本は島国の特殊性と入局管理局の厳しい規制のおかげで、ヨーロッパやアメリカほど大きな問題にはなっていない。しかし、この問題は、単に流入を止めればよいのではなく、突き詰めると、世界の在り方を問う、深い問題だろう。

移民や難民の流入は、その国を疲弊させる。職が移民や難民に奪われる。移民や難民支援のためにその国の財政が疲弊する。貧困から、一般に治安が悪化する。移民や難民は国を疲弊させる「武器」とも呼ばれるのだ。
移民や難民がその国を出る理由は、国に魅力がないからだ。貧困、飢餓、職がない、治安が悪い、遅れている、政治的に悪い・不安定、紛争・戦争がある、などだろう。
単に流入をストップすることは、彼らの苦しみをそのまま放置することなのだ。

それで、一つの案として、世界から、貧困、飢餓、不況、職がない状態、治安の悪さ、発展途上、圧政、政治不安、紛争、戦争をなくすことが考えられる。「単なる平和」だ。
ところが、そうした、「単なる平和」は人口爆発につながるかもしれない。
「単なる平和」になり、世界中の人々が豊かになり、安定すると、人口爆発が起きるかもしれないのだ。タイトルの意味が「地獄」なのが嫌で観ていないが、映画「インフェルノ」はだいたいそういうことだろうと予測している。「単なる平和」は、「地獄」につながってしまう危険性があるのだ。
さらに、医学が発達し、病気の克服や遺伝子操作で人が不老不死に近づくと、このままではますます人口爆発が避けられないのだろう。

そこで問われるのが、「不老不死の世界」か「誕生、病、老、死の循環社会」か、「その他」かという問題なのだ。
いずれがよいのだろう?いずれが究極の平和:「永遠の幸せ」に近いのだろうか?
不老不死の世界では、産児制限が必須だろうし、後者では多くの苦しみや悲しみが必ずあるだろう。
循環社会を考える時は死後の世界も考えなければならないかもしれない。存在の消滅は、幸せであるという状態を消滅させるかもしれないからだ。
この二つに限定されない別の世界があるかもしれない。それは私には想像がつかないがあるかもしれない。

難しい問題だからと言って放置してよい問題ではない。
現状では一部のひとが豊かに暮らしている一方で、移民、難民は苦しんでいる。流入の続くヨーロッパでは、もともと不況だったところに移民・難民の流入が続き、失業者、貧困層が増えた。程度はわからないが支援のため財政は圧迫されているかもしれない。移民、難民に反発して、民族主義、ナショナリズムが高揚し、それはひどくなれば、自民族、国家以外の民族、国民を攻撃することにつながるかもしれない、EUの解体、ヨーロッパでの大規模な戦争につながるかもしれないのだ。
将来的にも問題だ。医学は日々進歩しているし、おおよそ、世界は物質的に豊かになってきている。このままでは人口爆発は間違いないだろう。人口爆発を防ぐために、戦争などがあおられて。「強制的な人間減らし」が起きるかもしれない。

誰かこの問題を解決してほしい。真の平和:「ともに生きることを喜びとする社会」や究極の平和:「永遠の幸せ」の前の状態として、単に戦争のない状態:「消極的平和」やそれより良い社会状態「積極的平和(*)定義に諸説あり」が望まれてきたが、そうした「前の状態」を改善しないと、人口爆発によって人が、人類が滅びてしまうかもしれないのだ。真の平和や究極の平和にならないのだ。
地球にはキャパシティー「収容能力」がある。土地、食料、財産などには限界があるのだ。宇宙の広がりは無限だが、そこに生活範囲を広げるまでには時間がかかりそうだ。真の平和、究極の平和のためにも誰かこの問題を解決してほしい。

平和について:動物との共生

平和とは消極的には「戦争のない状態」。積極的定義は多様。私は積極的平和として、真の平和を「ともに生きることを喜びとする社会」、究極の平和を「永遠の幸せ」と定義しました。

ところで、平和は人間だけのものでしょうか?
動物との共生も平和に加えるべきだと考えます。

弱肉強食が既存の自然だとしても、何もそれに従う必要は無いのです。
より良いルールの世界を築けばよいのです。

食肉に反対しているわけではありません。
動物を殺さずに肉を食べられる時代を築くべきでしょう。
これについては「食肉の明るい未来」をご参照ください。

人間は細菌を殺さなければ生きていけないのですが、無益な殺生は避けるべきだと考えます。
また、可能な限り、遺伝子操作によって、弱肉強食を減らしてゆくべきだと思います。

わたしは過去に意図せずとも他人のペットを死なせてしまったことがありますが、
皆で可能な限り動物とも幸せな平和を築いていくことを提案します。

「平和」の定義(2)

わたしは、究極の平和とは「エターナル・ハピネス(永遠の幸せ)」であると定義します。
・・・
前回は「平和」とは、消極的な意味では「戦争のない状態」、積極的には、消極的平和+アルファであると説明しました。
そして私は「ともに生きることを喜びとする社会」を真の平和と定義しました。
詳しくは前回の「「平和」の定義(1)」をご参照ください。
ところで、この「ともに生きることを喜びとする社会」という定義には問題点があります。それらは、

(1)「喜び」、の意味が狭いという点です。
個人においても人間関係においてもその究極の理想は「喜び」だけでしょうか?
(2)もう一つは「生きる」ことに限定している点です。
私たちが常識的に知るのはこの世だけですが、それだけでしょうか?生きることには普通限りがあり、生老病死が伴います。でも生きることを超えて、あの世でも存在できるのかもしれません。
これらを踏まえて、私は究極の平和を「エターナル・ハピネス(永遠の幸せ)」と定義します。
個人においても関係においてもすべてが永遠に幸せであること。これが究極の理想でないでしょうか?
賛否両論、ご意見もいただけると幸いです。

「平和」の定義(1)

「平和」は消極的には「戦争のない状態」と定義される。
これに対し、より広範囲な「積極的平和」が提案されている。
「積極的平和」は「「戦争のない状態」でも争いや飢えなどがあれば平和ではない」として考えられたものである。
消極的平和はだいたい異論が無いようだが、「それでは不十分で本当の平和ではない」と多くは考えるだろう。

「平和」と呼ぶ何かが実際に存在するのか、言葉以上に何かを期待してしまっているのか?

おそらく、私たちは理想の社会を「平和」という言葉に求めているのだろう。

ゆえに「積極的平和」や「平和」の定義が一致しないのだと思う。
(平和学者:ヨハン・ガルトゥング氏の「積極的平和」の定義は「人類社会の統合」である。)

「平和は各自がそれぞれ心に抱くもの」、でも普通は問題にならない
ところが、社会、政治、学問のレベルでは大いに問題だろう
学問のレベルでは、定義が定まらなければ議論があいまいになる。
社会、政治のレベルでは、平和の解釈によって紛争、戦争が影響を受ける
「平和のための戦争」「平和維持軍」などという言葉で、殺し合いすら平和として肯定されかねない。
日本でも「積極的平和主義」の名のもとで、地域紛争へ軍事介入せよという意見もある。
(現実の治安維持、安全保障に「平和」という言葉をできるだけ用いないべきだと私は考えるのだが)

そこでわたしは真の平和を「ともに生きることを喜びとする社会」であると定義する。
これは消極的平和をカバーするし、積極的平和の私なりの定義である。
これは、心の平和である「内的平和」 社会関係の平和である「外的平和」もカバーする
ともに生きるのだから、殺し合い、苦しめ合いを否定する。敵をも愛して関係を改善するのである。
単なる共生ではなく、喜びのもとに生きるのである。個人においても社会関係においても苦しみ、悲しみではなく、楽しく、喜びに満ち溢れて生きるのである。

詳しくは、わたしのホームページの「平和の基礎理論」を参照願います。

最初のブログ投稿

旧ブログからの移行です。「平和」に関する情報発信をしていきたいと思います。

私は。真の平和とは「ともに生きることを喜びとする社会」であり、その究極は「永遠の幸せ」であると考えています。主に、その観点からすると世界はどう映るのかを述べて、問題意識を喚起し、世界を平和に近づけていきたいと思います。しばらくは単に旧ブログの記事を移行し、次第に新しい記事を追加していきます。