人口爆発を防ぐための金額は約6兆8千5百円

ざっくりと超ポイント。
人口爆発を防ぐのに超有効なコストは、2030年までに約6兆8千5百億円。この額「比較的」少ない。世界トップ20の銀行の不正行為の罰金だけで、国連人口基金の計画の総額約26兆4千億円を上回るから。(別に不正を咎めてるのではなく、それだけ実力のある銀行などが世界を救えると思っている)。ちなみにこのコスト、ざっくり言って「家族計画のニーズが満たされないことをなくす=望み以上の出生をなくす=人口爆発を防ぐ」ためのコスト。計画はあるがお金が無いとのこと。
この実現が、世界平和への道だと思うがどうだろうか。
今、やりたいことの一つは、この実現。
不足するお金を集めることに、何かできるだろうか?と考えている。

参考記事2019年11月13日付、国連人口基金のニュース記事「我々が望む世界の実現にかかる費用」よりhttps://www.unfpa.org/news/how-much-it-will-cost-realize-world-we-want

国連人口基金のニュース(2019年11月20日付)を読んで。プランはあるが、お金不足!

ナイロビサミットで人口問題に関して1200のコミットメントが発表された。国、民間レベル合わせて80億ドルの資金拠出とともに。モデルとしてナイロビ宣言(ステートメント)で3つのゼロが目標として掲げられた。この3つのゼロを達成するためには今後10年で2640億ドルが必要とのこと。お金が足りない!

このコミットメント、国連のSDGs(持続可能な開発目標)の目標達成期限である2030年とその目標達成期限を同じくしている。

そのうち、ナイロビ宣言(ステートメント)の3つのゼロとは以下の通り。

1.妊娠に関する死亡のゼロ

2.家族計画のニーズが満たされないケースのゼロ

3.少女や成人女性への性暴力や有害な慣習のゼロ

先に述べた通り、必要なお金は今後10年で2640億ドル。今回集まった(であろう)額は80億ドル。どうすればよいのだろうか?大変疑問だ。何とかなると思いたい。

8億人が飢餓状態

ワールドビジョンによると、現在、8億もの人が飢餓に苦しんでいるという。8億ってすごい数だ。食糧生産は十分だが、行き渡らないらしい。この背景にはやはり人口爆発の問題があるのでは?人々が豊かでいて持続可能な社会を実現したいものだと思った。

国連にお金を!お金があれば何とかなるのでは?

昔遊んだ、とあるパソコンゲーム。新しくて強い武器を手にいれるには、研究所にお金をつぎ込めばよかった。たくさんお金をつぎ込むほど、早く手に入った。*(とってもおいしい代用肉なども同じ状況かも!✨)

さて、国連の各機関がお金不足でとても苦しんでいるようだ。

各機関はプランやプロジェクトはあるのに、お金が足りない状況のようだ。

お金が足りないから、多くの人が死んでいく。お金があれば人の命が助かる。女性などの教育プログラムなどで、人口爆発が防げるかもしれないのだ。

とはいえ、日本でも、アメリカなどでも、台風などの自然災害や不況などで、それどころではない、と言われるかもしれない。たしかに身近な人、自分の国を優先すべきだというのはもっともだ。

要はバランスではないだろうか?地球に生きる他の国の人々も家族のように考えてはどうだろうか?自分や自分の家族のことと、地球家族のことも何となくバランスをとるのはどうだろうか?

一日あたり50円程度、月1000円程度の支援プログラムからある。かくいう私は、現在は、ささやかに国連WFPに寄付している。でかいことをいってその程度だ。ささやかにでもできることを、程度だけれども。

いざ実行となると難しいけれど、スマホで「国連に寄付」で検索すると、UNHCR とかユニセフとかが出てくる。

とにかく、人口爆発の解消が多分昨今の人類の最大の課題で、そのために国連人口基金が必要としているのはお金のようだ。

もっとも力を注ぐべきは国連人口基金だが、寄付のページにたどり着くのは面倒なようなので、UNHCRとかユニセフに寄付すれば、間接的に、国連人口基金を支えることになるのでは、と期待している

つまりは、国連にお金を!

※国連人口基金東京事務所のリンクはこちら。ここから寄付できるかは不明です。

ぶっちゃけの解説シリーズ 「すべて」(全宇宙)と神秘

「宇宙は無限に広がっている。だから、一部のことにこだわりすぎないように」というのも私の主張のひとつ。ところが「神の全否定」という訳でもない。たまたま知ったことから、全宇宙をthe whole universeと訳した。このwholeという単語、「全体の」という意味だが、「holy(神聖な)」という単語とも関わるという。「無限に広がっている宇宙」とはやはり人智を越えた神聖さを感じるのは私だけだろうか😄✨

講談社+α新書「なぜ宗教は平和を妨げるのか」を読んで

本書では、宗教が平和を妨げるのか、そうでないのかと言うより、妨げる場合を主に説明していた。大変参考になった。

そうした説明を読み、それらは本質的な現実のうち、極端な例、悲惨な例であり、逆に、平和を妨げない、幸せな社会に役立つ例があるはずなのも本質的な現実であると思った。

現代では、多くの人がそれぞれ信じるところがあるため、現段階においては、幸せな社会、思想·信条の自由といった人権尊重を第一として(それすら絶対視せず)、わたしの述べた「すべて」も含め、何も絶対視しない方がよいのでは?と思った。

個人的には各宗教や思想と、程よい距離を保ちつつ、自分の理想とする「エターナルハピネス」に役立つ、宝のような知恵や知識をそこから探していきたいとも思った。

また、幸せな共存を達成している現実から、どうやって問題を克服したのか学ぶべき、学べば良いと気づいた。

幸せな社会 (改訂版:2019年11月9日)

幸せこそ正義だと考えてみましょう。

幸せは生命体としても社会関係においても一つの共通善だと考えられるからです。
わたしたちは、生き物として同じです。生き物なので、みな幸せを求めているといるはずです。幸せはそれぞれという面もありますが、社会の中で、みんな幸せであれば、皆良いと思うもの、あるいはベストではないでしょうか?

さて、「正義」の定義は「人々が取り扱われる上での公平さ,公正さ」であると思います。
ネットのとある辞書にはそう書いてありました。異論があるかと思いますが、議論をスッキリさせるために、その定義に基づいて書いています。

そこで、 幸せこそ正義とすると,

「人々は公正、公平に、幸せになるように(幸せであるように)取り扱われるべき」となると思います。

取り扱う、扱われる主体は、政府、自治体、学校、企業、宗教、民族、国家同士、個人などでしょう。ひとはそれぞれ基本的には自由に相手と関わりますが、自分も相手もしあわせになるように、あるいは相手をネガティブに差別はしないで、ポジティブな意味で平等に取り扱うということです。特に、政府や役所、役人といった公的機関、公務員、仕事をする上での会社員、お客様に対してはそうした公平、公正さが大切でしょう。個人レベルでは、みんな友達といった感じでしょうか。もっとも自分がいつもそうできるかとは別の話です。(わたしは対人関係が苦手です(笑))

さて、それぞれのレベルで、人々は、消極的には「殺さない、誰もひどく傷つかない、傷つけない」よう取り扱われるべきでしょう。

例えば死刑無し、残酷な刑罰無しなど。
宗教、思想なども人を傷つけない教えであるべきでしょうが、そうでないときは、政府は積極的に生命、安全、人権、幸せを保護し、向上させるべきでしょう。思想や宗教は、その中に含まれる「幸せ」を最重視したりすべきでしょう。例えば、より具体的には「目には目を」「悪は滅ぼすべき」という教えもありますが、「愛には愛を」「罪を憎んで人を憎まず」「最後の一人まで救う」「すべてを救うはたらきに委ねる」「敵を愛せ」「隣人愛」などあります。

積極的には「できるだけ幸せになる、幸せにする」よう取り扱われるべきだと思います。
Exileの歌詞ですが、「幸せを願うことこそが愛」ではないでしょうか?

幸せや利害が対立するときは、調整、代替、止揚、仲裁、(過激な争いを緩和するための)強制、などで解決すべきでしょう。
例えば「これからの正義の話をしよう」という本に幸せや利害の対立する極端な一例がありました。
それは、ローマ市民が娯楽のためにキリスト教徒にライオンをけしかけるというものでした。そうした場合は別の娯楽を提供しては如何でしょう?この場合で言えば、一歩さがって冷静に「娯楽を求めている」と考え、例えば危険でない格闘技など、誰もひどく傷つかない別の娯楽を提供すべきでしょう。

欲求、欲望、要求は、対象とするものが絶対では無いはず。欲しいもの、好きな相手、やりたいことは、絶対それでなければいけないわけではなく、柔軟に、別のもの、別の人、別のことを考えることもできるはずです。絶対に譲れない何かを求めることも時にはありかもしれませんが、それにこだわりすぎず、他のことで気を紛らわしたり、妥協とか、代わりとか、より良いものを求めるのも良いのかと言えると思います。ちょっとの我慢も必要かもしれませんが、逆にもっと良いこと、良いものが手に入るかもしれないのです。
 「ランドクルーザー」といった高級車がどうしても今欲しいとけれど手に入らないと悩んでいる人がいるとしたら、その実現に向けて頑張るのも良いと思うのですが、「今すぐ欲しいのか」「少しお金を貯められないか」「別のモデルや車種ではどうか」「なぜ車が欲しいのか、爽快感を求めているとしたら別のことで爽快感を求めてはどうか」「この欲求不満を紛らわす今できる別のことはないか」と考えてはいかがでしょうか。
また、ブルゾンちえみさんの言葉によれば、彼氏を求める女性に対して、地球上の男性の数は「35億人」 なのです!誰か特定の一人にこだわりすぎず、エイリアンでも可でしたら、どれだけの出会いが期待できるのでしょうか? あるいは「彼氏」にこだわりすぎずに、別のことで気を紛らわすのも手かもしれません。

わたしがそうできているかと思いませんが、最高を求める気持ちと、妥協する気持ちの両立が良いのかもしれません。

幸せや欲求が対立して、どうしても個人や双方が譲らず、対立が激化しそうなときは、強制力が必要な場合があるでしょう。もっとも、それは基本的に、何かの案を押しつける強制力ではなく、個人や対立する双方がひどく傷ついたり傷つけ合うことを防ぐような強制力です。
いじめっこに対して正義の力がにらみを効かせるといった強制力もあるでしょう。
ただし、もっともこれらは原則で例外もあると思います。原則は万能ではないのです。

さて、幸せについてですが その状態について考えました。

  1. 生物学的、医学的、社会的に、欲求が満たされる、脳内物質の分泌により幸福感のある状態。
    痛み、苦しみ、喜び、快感、空腹、満腹、病気、健康、幸せに関わる脳内物質などはほぼ生物に共通することだと思います。その他、幸せは人それぞれというのも、逆に人に共通していることだと言えます。そうした幸せをもたらすのは、治安や豊かな物資、文明、家族、地域、国、国際関係など、社会関係でもあるのです。
    安全で安心して暮らしていけるから、幸せであることができるとおもいます。
  2. 当人が幸せであると実感している状態
    健康であったり、どんなにお金持ちであったり、友達が多くても、幸せをあまり感じない人もいるでしょう。逆に、病気であったり、貧しかったりしても、幸せだと感じている人もいると思います。そういう人たちは、病気が癒され、豊かになることも幸せの要素だと思いますが、このように、しあわせには、「当人が幸せと感じている」ことも必要だと思います。

「世界中が幸せになれ!」(ぶっちゃけの解説)

「世界中が幸せになれ!」(ぶっちゃけの解説)
私の論文、「全宇宙は無限にして永遠、時を越えている」(作成中)は、
「世界中が幸せになれ」(SMAP の歌詞より)という願いの前提となる世界観(真実)
それは、ほぼ二つの論文を合わせたもの

ぶっちゃけの解説は次の通り。

宇宙には果てが無さそうだ

自分も自分が生きている世界も実在しているだろう。

ずっと先(過去)や後(未来)を考えると

多分、永遠だろう。

つまり「宇宙は無限で永遠」それが現実だろう。

(逆に「宇宙は有限では?」と疑って比べてみれば、どっちが正しいか分かるだろう)
(ビックバンについては下記論文をみてね。)

だったら一部の宗教、思想、民族、国家、星などにこだわりすぎるのは如何かと。

それらは宝物のようだけど。

むしろ同じ生命体として共通善である「幸せ」を広めていけばいいんじゃない?

といった世界観と考え方。そしてこれが真実!!

宇宙のプログラムは全体的にはうまくいっていて、一部修正可能なエラーがあるらしい

さらには、宇宙がプログラムされたものなら、何でもあり?時を越えられるかも。

宇宙の果てはどうなっているのか

 「すべて」は永遠に存在する      

幸せこそ正義(改訂版2019年11月6日版)

幸せこそ正義だと考えてみましょう。
幸せは生命体としても社会関係においても一つの共通善だと考えられるからです。

さて、「正義」の定義は「人々が取り扱われる上での公平さ,公正さ」であると思います。
そこで、 幸せこそ正義とすると,

「人々は公正、公平に幸せになるように(幸せであるように)取り扱われるべき」となると思います。

取り扱う、扱われる主体は、政府、自治体、学校、企業、宗教、民族、国家同士、個人などでしょう。

それぞれのレベルで、人々は、消極的には「殺さない、誰もひどく傷つかない、傷つけない」よう取り扱われるべきでしょう。

例えば死刑無し、残酷な刑罰無しなど。
宗教、思想なども人を傷つけない教えであるべきでしょうが、そうでないときは、政府は積極的に生命、安全、人権、幸せを保護し、向上させるべきでしょう。思想や宗教は、その中に含まれる「幸せ」を最重視したりすべきでしょう。例えば、より具体的には「目には目を」「悪は滅ぼすべき」という教えもありますが、「愛には愛を」「罪を憎んで人を憎まず」「最後の一人まで救う」「すべてを救うはたらきに委ねる」「敵を愛せ」「隣人愛」などあります。

積極的には「できるだけ幸せになる、幸せにする」よう取り扱われるべきだと思います。

幸せや利害が対立するときは、調整、代替、止揚、仲裁、(過激な争いを緩和するための)強制、などで解決すべきでしょう。
例えば「これからの正義の話をしよう」という本に幸せや利害の対立する極端な一例がありました。
それは、ローマ市民が娯楽のためにキリスト教徒にライオンをけしかけるというものでした。そうした場合は別の娯楽を提供しては如何でしょう?
欲求、欲望、要求は、対象とするものが絶対ではないはず。
この場合で言えば、一歩さがって冷静に「娯楽を求めている」と考え、例えば危険でない格闘技など、誰もひどく傷つかない別の娯楽を提供すべきでしょう。
どうしても個人や双方が譲らず、対立が激化しそうなときは、強制力が必要な場合があるでしょう。もっとも、それは基本的に、何かの案を押しつける強制力ではなく、個人や対立する双方がひどく傷ついたり傷つけ合うことを防ぐような強制力です。
いじめっこに対して正義の力がにらみを効かせるといった強制力もあるでしょう。
ただし、もっともこれらは原則で例外もあると思います。原則は万能ではないのです。

さて、幸せについてですが その状態について考えました。

1. 生物学的、医学的、社会的に、欲求が満たされる、脳内物質の分泌により幸福感のある状態。
2. 当人が幸せであると実感している状態

このように考えています。ご意見やご感想、コメントなど、頂ければ幸いです。宜しくお願い致します。