回答的結論:それは「善」「偽善」の定義によります。少し検討して下に述べています。けれども平和や愛は「善」「偽善」を考えずに求めることも可能です。そんな風にあまり暗く考えず、「なるべく」みんながハッピーであるようにすればそれでよいのではないでしょうか。
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平和や愛を求める時、ふと、「もしかしたら自分は偽善者かもしれない。愛や平和など嘘や偽善だ」と考えてしまう人がいるかもしれません。
そういったとき、逆に考えて下さい。ほんとうにそうでしょうか?
偽善とは一体何を指してそういうのでしょうか?偽善と批判するならば、そこで言う善とはなんでしょうか?
確かに「100%ピュアで利己心や打算などが全く無い利他行動」が「善」だと定義するならば、平和や愛を求める上で、「偽善」という問題にぶち当たるかもしれません。
けれども、私は「善」とは「自己や他者を幸せにする考え、行動」であって、その意味で別に100%ピュアである必要は無いと考えています。
そもそも、「善」だの「偽善」だの考えずに、自分、周りの人、見知らぬ人も、みんな、より仲良く、大切に、楽しく、幸せであるように考え、行動することはできるはずです。
では「幸せ」や「喜び」「楽しさ」に意味や価値があるのかと問われるかもしれません。
深刻に考えれば、「幸せ」「喜び」「楽しさ」「意味」「価値」といった言葉の定義を堀りさげ、追求していく必要がありそうです。
でも普通に考えれば、「幸せ」「喜び」「楽しみ」は、他人を害さないものである限り、それ自体で「良い」「否定されない」「みんなが共通して望んでいる、求めている」「肯定される」べき、「意味」や「価値」を問う必要が無いものであると思います。
つまりは「幸せ」「喜び」「楽しさ」は「意味」や「価値」を考えるまでもなく、生き物、あるいは存在として、味わっていればそれでよいものだと考えています。
さて、人間はおそらく不完全であって、時には100%ピュアでなくとも。ほどほどに仲良く、大切に、楽しく、幸せであれるとおもいます。
人間や世界は「すべての存在の永遠の幸せ」に近い方がいいと思いますが、現実のなかでは完全にそうでなくても、とりあえず発展途上として受け止めようと考えるのです。
要は、難しく考えず、みんなハッピーであればそれでいいはず、ということです。
また、慈善活動などを検討、実行するとき「純粋に助けたい気持ちだけじゃないな。偽善だ。だから止めよう」
というのも一つの考え方でしょうけれど、
「純粋に助けたい気持ちだけじゃ無い。けれど、善、偽善はどうでもいい。助けよう」
というものポジティブな考え方だと思います。
例えば、どこかの国で、飢え死にしそうな子どもたちがいて、その時、ピュアじゃない。偽善だ、と考えて、食料を与えるのを止めるよりも、なんとなくでも与えた方が、多くが、よりハッピーになれると思います。
この時、ピュアではない自分の気持ちを責めてしまうかもしれませんが、そうせず、「自分にはピュアでない暗い部分があるけれども、できることもある。すこしでもできた」と暗い部分も受け止め、できたことを喜べば、自分の癒しにもなるのではないでしょうか。
ちょっとコメディを紹介します。
ほりのぶゆき さんの漫画「もののふの記」に「闇の三善人」が登場します。
一見、悪代官、悪徳商人、悪の用心棒の悪だくみのようですが、この三人は暗い気持ちのまま、すなわち「幸福のどん底に叩き落としてくれる」という勢いで、「善」を行うのです。
そういうのもありかもしれません。
ところで「良いことをしようと思ってもできない。自分はダメな人間だ」と思う人がいるかもしれません。
しかし、自分や他人を幸せにすることで、楽に、負担なくできることを、したいときだけするというのでも、良いのではないでしょうか?
本多時生さんの言葉に「すぐには変われない、少しづつ変わればいい」といった感じのものがあったと思いますが、そう思います。
なりたい自分があって、変わりたい自分があってもすぐには変われない。なりたい自分になれるよう日々を積み重ねていけばいい、と考えています。
みんなの幸せが良い事ならば、「みんな」に含まれる自分を幸せにすることも、また良いことの一つだと思います。
他人をひどく犠牲にした自分だけの幸せは問題かもしれません。うまく調節して、自分もみんなもハッピーになれるような方向を捜すのが無難だと思います。
さて、「完全」でありたい。そうなりたい、と願う気持ちもあると思います。
他者に「完全」を求めてしまうこともあると思います。
私も時にそうなってしまいます。
もしかしたら、もしかしたら、そうすべき倫理的、宗教的絶対の何かが存在するのかもしれませんが、「完全」を求めることは時に苦しすぎて、幸せではないかもしれません。
倫理的、宗教的絶対の何かが存在するならば、「人間は「完全」を求めすぎず、ほどほどに幸せであれば良いよ」と考えていてほしいものです。
ちょっとまとまりがなく、すみませんでした。(笑)