幸せこそ正義という考え方

試論です。コメントなどお待ちしています。

正義の定義は「人々が取り扱われる上での公平さ、公正さ」である。
そこで、幸せを正義とすると、
「人々は幸せになるように(幸せであるように)取り扱われるべき」となる。
取り扱う、扱われる主体は、政府、自治体、学校、企業、宗教、国家同士、個人などである。
それぞれのレベルで人々は消極的には「殺さない、誰もひどく傷つけない、傷つかない」よう取り扱われるべきだ。
積極的には「できるだけ幸せになる、幸せにする」ように取り扱われるべきである。幸せや利害が対立するときは、調整、代替、止揚、仲裁、等で解決すべき。
もっともこれらは原則で例外もある。原則は万能ではない。

論文の誤りを修正中

論文の誤りを修正中。通常「無」は「絶対的な無」を意味するが、現実では、すべては知覚か、名前を付けることができる。 それゆえ言葉の誤り以外、現実に存在する。端的に言えば「無」と呼ばれている状態であることそれ自体で存在の一つなのである。「無」の意味する内容が、一般と現実で異なっている。「無」を言葉の誤りとするか、「無」という言葉のまま、現実的内容を明らかにするかである。この論文では、今のところ後者の立場を取っている。まだ言葉が不完全であるが、真実に近づいているはずだ。

小説「エターナル・ハピネス」の主要なポイント

私の小説「エターナル・ハピネス」で是非とも伝えたかったことをいくつかまとめました。以下のことです。

・「敵を愛せ」
・真の平和は「ともに生きることを喜びとする社会」
・ その究極は「永遠の幸せ」
・「悪」は滅ぼすべきでなく「善」に改めるべき
・「正義の復讐者」が存在するならば「愛の教育者」に自己変革すべき。
・地球を「永遠の幸せ」の模範として宇宙に示そう。

ご理解いただければ幸いです。

世界の債務残高、1.9京円 リーマン・ショック前の1.6倍(共同通信社の記事のタイトル)

この状況を戦争でごまかさず、みんなの幸せを創り、保ち、発展させるには?
完済や重い返済を課すのとは別の解決を探した方が良さそうに感じる。
あるいは、みんなの幸せを目指して、経済のあり方を相当変えてしまうとか。
そうとう頭のいい人が考えるべきことはこういう問題では?
そういう人たちは、下手に悩んで鬱とかになるのではなく、明るく、楽しく、解答を見つけそう。現在の私にはわからない。

タイトルで紹介した記事のリンクは:こちら

「和志」でいられるか「地獄の使いA」となるか?

私は平和を志す者でありたいという理由で現在「和志」というペンネームを持っている。一方、ただ「かっこいいと感じた」というだけの理由で「地獄の使いA」というペンネームをつけた過去がある。いたずらっ子でいじめっ子だった一方、いじめられっ子でもあった。思い遣りや心遣いには大体欠けていたとおもう。反戦教育の影響で反戦意識、平和意識を持って育った一方、テレビのヒーローものやロボットアニメの影響か、戦闘を楽しむ面も持っている。トラブルに対する野次馬根性も持っている。「自分も他人も幸せである」という状態を目指し、人の不幸を悲しみ、幸せを願うことに喜びと幸せを感じることができる自分がもっとも好きで、そうありたいと願うのだが、一方で、人の不幸や失敗を喜んでしまうところもある。対人関係のスキルにも決定的に欠けている。そうしたことから、平和を志す上では交渉や現地での活動ではなく、言葉で志そうと考えている。さらには、思考や言葉を歪めるネガティブな感情やメンタルは改善しようと考え、カウンセリングを受けようとしている。そうした一方で、自分を現実的に「地獄の使いA」に堕としいれてしまうかもしれない状況や、「何かの影響力」やネガティブな資質の問題点を感じてしまう。例えば、リスクを「感じ」不安になるとき、私に知らせるべきが知らせてくれれば現実にその時何ができ、その時は何をすべきでないかわかるはずだが、情報が無いので、周りが見えず、前に進む。リスクを「感じた」状況で進みつづけると、心が黒くなると感じる。知らせないのと同時に「感じさせる」のが「何かの影響力」では?解決策は知らせるべきが知らせることだと思うが。自分のネガティブなメンタルの部分はカウンセリングで改善を試みる。そもそもただでさえ大して頭がよくないのに、一人で孤立して平和を考えたりしていること自体が問題だろう。孤立状態を解消すべく、自分でできる努力はこれからも続ける。このままでは間違った答えを出してしまうかもしれない。それこそ「地獄の使いA」では?そうとは限らないか。「地獄の使いA」についての記述があります。ご覧ください。

あるいは理想の平和とこの問題については小説「エターナル・ハピネス」をご覧下さい。

自分に何ができるか?現在の私は子どもが医者になって人を救いたいと夢見ているようなのかもしれない。そう、夢見がちで現実的思考が不十分だ。現実的思考を妨げる何かがあれば、改善すべきだろう。実力も不足している。

出来るだけポジティブに、理想的かつ現実的に頑張ろう。

2019年7月参議院選挙

参議院選挙、投票を済ませた。前もって知った限りではどの候補者、政党にも、賛成できないところがあり、白票を考えた。こんなことにならないように、普段から政治についてよく考え、意見したい政治勢力に対して、もっと意見を伝えるべきだったのかも。結局、バランスの観点から候補者名、政党名で投票した。平和についても、国民が、普段からしっかり意見しないと、政治勢力は全面的に支持が得られていると誤解してしまうかもしれない。地球の許容できる人口が20億という計算もあるのに対して、現状は70億、そして将来120億と言われている現実。良くない世界経済の現状。平和を求めるならば、日本だけではできないので、全世界的が平和的に変わるように、国内でなく、まずは国際規模で意見すべきか?と思った。

地球の平和の在り方を探る

人間がより良く変わっていくこと。特に知性と愛。

地球の支配者が存在するならば、その楽しみを損なうことなく、別の何かに楽しみを見出してもらう。

例えば、残酷なことに楽しみを見出している人について、その人は残酷な行為そのものを欲しているのではない。結果としての楽しい気持ちを欲しているのだ。残酷な行為が楽しくないようにするか、別のことで楽しんでもらうようにすれば、その人の幸せを損なうことなく、他との幸せな共生が可能となるだろう。

小説「エターナルハピネス」の重要な部分。(ネタバレ)でも是非!

下記は、小説「エターナルハピネス」のうち、最も読んでほしかった部分の一つです。せめてここだけでも。小説の電子書籍版は楽天Koboで無料配信中です。

「「収穫者」とファーストコンタクトを取る。彼らの衛星にアクセスせよ」
「長官」はスタッフに告げた。

「収穫者」とは互いの存在を知りつつ、暗黙の不干渉を保ってきた。地球においても、人間への互いの影響に直接は干渉しない、という暗黙のルールを保ってきた。しかし、今それを破る必要がある。
オペレーションルームのメインスクリーンには、人間のような形をした光の塊である「収穫者」が数体映し出されていた。一方「和平側」も「長官」をはじめオペレーションルームの一部の画像を「収穫者」に送っていた。「長官」は声を発した。

「我々は地球文明の平和を要望する。争いを止めよう」
この言葉に対し、光の塊も声を発した。それは明らかに合成されたものだった。
「我々は争いによって文明を育てているのだ。文明を育てるためには犠牲がつきものなのだ。小規模な実戦経験があるから、大規模な争いに対応できる文明に成長できるのだ。おまえたちにもわかるだろう」
「長官」は直ちに反論した。
「実戦経験はバーチャルリアリティによる訓練で代替できる。これ以上の無駄な犠牲は避けるべきだ。大規模な争いを防ぐというのなら、「収穫」は一体何だ? 我々はお前たちの計画を把握している。人間を大量に殺戮し、一部の霊魂のみを回収するものであることを。お前たちがこれまで人間の文明を育ててきたことは認める。しかしこれからは新しいテクノロジーをもちいた訓練によって育てるのだ。人間は殺すべきではない。それだけではない。もはや人間はおまえたちの家畜ではないし、ものを言う道具でもない。人間を解放せよ」
その昔、奴隷は「ものを言う道具」と言われていた。「収穫者」にしてみれば、人類は、多少楽しめる道具に過ぎないのだろう。
「われわれは労働を必要としている。したがって、解放するわけにはいかない」
「ロボットに労働させればよい。お前たちの快楽や必要を満たす労働はすべてロボットに行わせればよい。そのためのテクノロジーは提供する」
何も人間にこだわる必要は無いはずなのだ。
「ロボットに労働させたとして、人間は残せというのか? 人間はあえて不完全に作った。思考、行動は、感情、感覚に影響される。いや支配される。人格を形成するのは遺伝と社会環境の相互作用の結果である。遺伝という種が様々な場所で実を結ぶ。そのうち良いものを収穫し、悪いものを永遠の火に投げ入れて何が悪い?」
「長官」は顔をしかめた。「収穫」計画はやはり予想どおりだった。あからさまに言うところは彼らの正しさへの自信の表れだろう。
「人格を形成するのが遺伝と環境であるからこそ人は変われるのだ。おまえたちは言葉という環境によって人間の野性的本能を超越させてきたではないか」
「変わるからこそ不完全なのだ。変わるだけではなく、多くはもろく、弱い。収穫するのはほんの少しの優秀なものでよいのだ。なぜ悪いものまで残す理由がある?」
一聴すると、もっともな意見ともいえる。しかしここからが譲れない価値観の違いであった。
「人間は変われるのだ。もし悪であっても、遺伝や環境を変え、あるいは次の生の機会を与えて良いものに変えていくべきなのだ。我々も弱い生物だ。悲しみや怒りで思考が鈍る時もある。過ちを犯す時もある。しかし、同じ血の通った弱い生命体として人間とその文明がいとおしいのだ。「収穫」によって何が起きる。憎しみ、苦しみ、流血、そして残るのは廃墟ではないのか?世界を過去の遺産にするつもりか?」
長官のこの言葉を「収穫者」は冷たく切り捨てた。
「その通り。人間とその文明をこれ以上続けて何になる? 地球はもう終わりにして、良いものだけを新しい星に移すべきなのだ」
ここであきらめるわけにはいかない
「人間の文明はまだ終わってはいない。努力次第でどうにでもなる。人間とその文明を廃墟にしたくはないのだ」
「人間の文明はもう限界ではないのか?」
違う、違うのだ。
「おまえたちが意図的に限界に近づけているのではないか」
核心を突いた言葉に「収穫者」の応答が一瞬遅れた。
「・・・我々は人間自らの手によって人間の文明を終わらせる」
「そうはさせない。我々は行動する。さらに、万が一お前たちが直接攻撃までエスカレートするならば人間の文明の滅亡を防ぎきれないだろう。だが、それだけでは済ませない。人間の文明の滅亡と同等の報いをお前たちにも与えてやる」
「それでは、我々も報復する。おかしなことだ。我々の争いに残るのはお前たちの言う廃墟ばかりではないのか?」
「青年を悪に仕立て上げて殺すことと人間の文明の滅亡はそのまま見逃すことの出来ぬ暴挙である。おまえたちは乱数によっても人間の差異を生じさせ、環境で操作し、気に入らなかった者たちは無理やりにでも悪に仕立て上げてきた。乱数を生じさせていることからして我々から見れば悪とも言える。悪として永遠の火に投げ入れられるのはむしろおまえたちではないのか?」
乱数とは、まったくでたらめな一連の数字である。
「収穫者」は人間のプログラムの中に、乱数の要素を取り入れた。人間がシンプルな機械のように、同じ刺激に対して、皆まったく同じように反応したら面白くない、と考えたのだ。プログラムである以上、一定の法則には従うが、それだけでなく、気まぐれな、何をするかわからないといった要素を加えたのだ。それにより、多様な面白味も生じているが、反面、度を越した犯罪、行動も起きる。また、それ以前に、収穫者たちは、意図的に人間が犯罪を犯すようにプログラムしているのだ。犯罪や争いが起き、それを取り締まることによって、社会が維持、向上していくように仕組んでいるのだ。要は「混沌と秩序の入り混じり」のある文明の発達を楽しんでいるのだ。そうした自分たちの楽しみのために、自分たちが悪を作り出しているのに、それを忌むべき存在として滅ぼそうとしている。作るものには責任があるはずなのだ。罪深いのはむしろ「収穫者」の方なのだ。
「われわれと全面対決しようというのか?」
恐ろしい言葉だった。だが正念場と心得た。
「そうではない。おまえたちが悪と定めた者たちも殺さず、苦しめず、改めてほしいのだ」
「何を理想としてそう言うのだ?」
理想は和志が示してくれている
「青年の言う、「共に生きることを喜びとする世界」だ。

「収穫者」は我々との直接対決は避けるだろう。焦点はいかに「収穫」を止めるか、というところにあるべきだ。

和解

漆黒の宇宙船。オペレーションルームにあるスクリーンの一つは「青年」の姿をとらえていた。その時「収穫者」からの通信映像が入り、それはメインスクリーンに映し出された。

決定的瞬間だ。

「長官」は息を飲んだ。だが、このタイミングだ。「長官」はやや楽観的になっていた。結果は「長官」の期待以上のものだった。

「この青年は生かすべきだ。この青年を殺そうとしてまで守ろうとした人間とその文明、大切にしよう。お前たちとの直接対決は我々の望むところではない。なによりも永遠の幸せ、Eternal Happiness. E・H、面白いではないか。共に生きることを喜びとする社会、Joyous CoexistenceのJ・Cもジーザス・クライストの頭文字と同じ。我々も我々を生み出した神については未知であるが、全宇宙を統べる神の意志があるとするならば、全宇宙を永遠に幸せに近づけていこうとするものであろうとも考えられる。おまえたちと我々で地球をE・Hの発信地としようではないか。宇宙のオアシス、地球の奪い合いは続くであろうが、我々がすでに覇権を確立している地球をE・Hのなしうる範囲で開放しよう。どんな星にも収容能力がある。その範囲内で、だ。外部からの攻撃は撃退し、防衛する。その攻撃してきた存在も、破壊するのではなく、共存する。E・Hに取り込むのだ。干渉と言われようが、我々は介入する。防衛でもあり、拡大でもあるのだ。収穫は中止する。遺伝子操作と我々の医学で人間は死ななくなる。これまで多くの霊魂を消滅させてきた我々の罪の償いとして、これからはすべての霊魂をSAVE(救済)しよう。地球の国連の改革はわれわれの次のメッセージだ。バリアを解け。そうすれば我々は青年を救う。見るがいい」

平和や愛は偽善か?

回答的結論:それは「善」「偽善」の定義によります。少し検討して下に述べています。けれども平和や愛は「善」「偽善」を考えずに求めることも可能です。そんな風にあまり暗く考えず、「なるべく」みんながハッピーであるようにすればそれでよいのではないでしょうか。

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平和や愛を求める時、ふと、「もしかしたら自分は偽善者かもしれない。愛や平和など嘘や偽善だ」と考えてしまう人がいるかもしれません。

そういったとき、逆に考えて下さい。ほんとうにそうでしょうか?

偽善とは一体何を指してそういうのでしょうか?偽善と批判するならば、そこで言う善とはなんでしょうか?

確かに「100%ピュアで利己心や打算などが全く無い利他行動」が「善」だと定義するならば、平和や愛を求める上で、「偽善」という問題にぶち当たるかもしれません。

けれども、私は「善」とは「自己や他者を幸せにする考え、行動」であって、その意味で別に100%ピュアである必要は無いと考えています。

そもそも、「善」だの「偽善」だの考えずに、自分、周りの人、見知らぬ人も、みんな、より仲良く、大切に、楽しく、幸せであるように考え、行動することはできるはずです。

では「幸せ」や「喜び」「楽しさ」に意味や価値があるのかと問われるかもしれません。

深刻に考えれば、「幸せ」「喜び」「楽しさ」「意味」「価値」といった言葉の定義を堀りさげ、追求していく必要がありそうです。

でも普通に考えれば、「幸せ」「喜び」「楽しみ」は、他人を害さないものである限り、それ自体で「良い」「否定されない」「みんなが共通して望んでいる、求めている」「肯定される」べき、「意味」や「価値」を問う必要が無いものであると思います。

つまりは「幸せ」「喜び」「楽しさ」は「意味」や「価値」を考えるまでもなく、生き物、あるいは存在として、味わっていればそれでよいものだと考えています。

さて、人間はおそらく不完全であって、時には100%ピュアでなくとも。ほどほどに仲良く、大切に、楽しく、幸せであれるとおもいます。

人間や世界は「すべての存在の永遠の幸せ」に近い方がいいと思いますが、現実のなかでは完全にそうでなくても、とりあえず発展途上として受け止めようと考えるのです。

要は、難しく考えず、みんなハッピーであればそれでいいはず、ということです。

また、慈善活動などを検討、実行するとき「純粋に助けたい気持ちだけじゃないな。偽善だ。だから止めよう」

というのも一つの考え方でしょうけれど、

「純粋に助けたい気持ちだけじゃ無い。けれど、善、偽善はどうでもいい。助けよう」

というものポジティブな考え方だと思います。

例えば、どこかの国で、飢え死にしそうな子どもたちがいて、その時、ピュアじゃない。偽善だ、と考えて、食料を与えるのを止めるよりも、なんとなくでも与えた方が、多くが、よりハッピーになれると思います。

この時、ピュアではない自分の気持ちを責めてしまうかもしれませんが、そうせず、「自分にはピュアでない暗い部分があるけれども、できることもある。すこしでもできた」と暗い部分も受け止め、できたことを喜べば、自分の癒しにもなるのではないでしょうか。

ちょっとコメディを紹介します。

ほりのぶゆき さんの漫画「もののふの記」に「闇の三善人」が登場します。

一見、悪代官、悪徳商人、悪の用心棒の悪だくみのようですが、この三人は暗い気持ちのまま、すなわち「幸福のどん底に叩き落としてくれる」という勢いで、「善」を行うのです。

そういうのもありかもしれません。

ところで「良いことをしようと思ってもできない。自分はダメな人間だ」と思う人がいるかもしれません。

しかし、自分や他人を幸せにすることで、楽に、負担なくできることを、したいときだけするというのでも、良いのではないでしょうか?

本多時生さんの言葉に「すぐには変われない、少しづつ変わればいい」といった感じのものがあったと思いますが、そう思います。

なりたい自分があって、変わりたい自分があってもすぐには変われない。なりたい自分になれるよう日々を積み重ねていけばいい、と考えています。

みんなの幸せが良い事ならば、「みんな」に含まれる自分を幸せにすることも、また良いことの一つだと思います。

他人をひどく犠牲にした自分だけの幸せは問題かもしれません。うまく調節して、自分もみんなもハッピーになれるような方向を捜すのが無難だと思います。

 

さて、「完全」でありたい。そうなりたい、と願う気持ちもあると思います。

他者に「完全」を求めてしまうこともあると思います。

私も時にそうなってしまいます。

もしかしたら、もしかしたら、そうすべき倫理的、宗教的絶対の何かが存在するのかもしれませんが、「完全」を求めることは時に苦しすぎて、幸せではないかもしれません。

倫理的、宗教的絶対の何かが存在するならば、「人間は「完全」を求めすぎず、ほどほどに幸せであれば良いよ」と考えていてほしいものです。

ちょっとまとまりがなく、すみませんでした。(笑)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

小説「エターナルハピネス」の問題点

(小説「エターナル・ハピネス」を電子出版しています。ご興味のある方は楽天Koboにて「エターナル・ハピネス」で検索するとヒットしますので是非ご覧ください)

小説の中で、「人間を労働から解放するために、ロボットを用いればよい」という一つの理想を提示した。

この理想に対し、2つの問題点を見つけた。理想を生かした解決策を見つけたい。

第一の問題点は、人間を破壊するロボットが開発され、利用されるという危険性が未解決であることだ。
映画「ターミネーター」は基本的に人間対ロボットの戦争を描いている。「ターミネーター2」では、敵であるロボットの一つを人を守るためだけに動くようにプログラムし直すことに成功したという希望もある。「トランスフォーマー」の一派はいわゆる正義の機械生命体だろう。

けれども、ロボットの「悪用」の危険性を解決しない限り、人間に代わる労働のできるロボットの開発は避けるべきだろう。

第二の問題点は、人間の労働からの解放が、人口爆発、過剰という現代最大の問題を引き起こすか悪化させる危険性があることだ。

人口の過剰による地球の破滅の危機を、労働による負荷、拘束が、かなり抑制しているだろう。十分有効な対策なしで、社会が豊かで自由度が増せば、人口が爆発して地球が破滅する危険性があるのだ。

ロボットの危険性に加えて、このことは残念ながら、社会を存続させるためには、人間の多くが労働することが必要なことを意味する。また社会が存続しなければ、自由であっても幸福は困難だから、必要労働を放棄するべきではない。

したがって社会の存続と、自由という個人の幸福を両立させるためには、人口爆発と過剰を防ぐことを第一に考慮しつつ、可能な限り、身体的、心理的な労働の負荷、労働時間、日数を減らしていくべきだろう。

なぜなら、労働は、その最中に幸福感を得られる時(俗に言えば楽しい時、やりたい時)もあるが、幸福感を得られない時(俗に言えば嫌な時、やりたくない時)にも続けることが「強く要求される」もので、時には自由に著しく反するからだ。

また労働負荷の軽減という課題は、地球規模で行う必要があるだろうと考える。なぜなら、資本主義社会においてある一部の国が軽減を行えば、それらの国は競争に負けて荒廃しその国民の多くは不幸になるからだ。

このように、小説「エターナル・ハピネス」にはまだまだ、議論、改善の余地がありそうだ。ご意見等頂きたく思う。